世界で最もヒットしたミュージック映画Sound of Musicの
映画では描かれなかったその後の家族のストーリー
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マリアさんが語る一家の物語 | 若かりし日のマリアさん |
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今も残っているザルツブルグのトラップ家 | 実物 トラップ大佐 |
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映画での7人の子供たち | 92歳の次女マリアさん |
マリアさんが住んでいる家
2007年3月末の1時間30分の番組。映画のモデルとなった家族がどんな人生を歩んだのでしょう。 運命・祖国との別れ・家族のストーリー/激動の20世紀を生き抜いたマリア・フォン・トラップさん92歳が語ってくれました。四日間のインタビューを収録したもののようでした。 なぜアメリカで暮らすことになったのか、幼い頃のこと、大きなお屋敷で暮らしていたことなど・・・・アメリカに住んで70年になるマリアさんは茶目っ気たっぷりのお元気な方でした。 |
オーストリアの音楽の都ザルツブルグの町郊外に今も残っている三階建ての建物がゲオルク・フォン・トラップ大佐のお家。裕福な貴族で7人の子供がいました。ゲオルク・フォン・トラップさんは潜水艦の艦長をし31歳の時妻アガーテさんと結婚しました。7人の子供(長男ルーペルト、長女アガーテ、次女マリア、次男ベルナ、三女ヨハン、四女マルティナ、五女ルィータ)をもうけましたが、次女マリアさんの7歳の時、病気で亡くなりました。その後、男手ひとつで7人の子供の面倒を見なければならなくなってしまいましたトラップさんは、良く子供のところへ来てお話をして聞かせてくれたそうです。 |
潜水艦の艦長であったトラップさんは、育ち盛り遊び盛りの7人の子供をまとめるためにある道具を使いました。それがあの笛であったのです。あの笛はマリアさんの家にあって見せてくださいました。そして、これが集合の合図、これがだれだれを呼ぶ合図と言いながら吹いてくださいました。映画そのものでした。 家庭教師のマリアさんは、ウィーンで生まれ早くに両親を亡くし、親戚たらい回しされ、孤児院で育った方なんだそうです。 修道女となることを望んでノーベルク修道院に・・・・・教師をしていました。自由奔放な先生であったようで、広い階段を二列になって下りるところ、手すりの上にまたがって滑り降りるなど・・・・しかし、子供の心を掴むのが上手でした。修道院を出て友人の家に居候していたそうです。ザルツブルグに住む友人の娘さんのイゼル・ガナールさん91歳は、教師の職を探していたそのマリアさんのことを話してくださいました。友人の家に電話が掛かって来て、家庭教師に行くことになったそうです。着ていく洋服がなくて友人のお母さんの服を借りて出かけたそうです。1926年の秋でした。家庭教師のマリアはこの時21歳だったそうです。 |
トラップさんの家は、格式高い貴族の家ですから使用人が12人いたそうです。一方トラップ家の次女マリアは12歳でした。マリアが病弱で学校へ行けなかったので家庭教師にしたのだそうです。ギターを持って家庭教師マリアは、緊張して行ったそうです。子供たちは、自由な空想の世界に飛んでいく歌の教えてくれるマリアは大好きでした。学校と違ってどこでも勉強するなど・・・・・・歌の楽譜は三つのパートに分かれていて素敵な歌ばかり教えてくれたそうです。歌を教わるのは楽しかったし、勉強の教え方も面白かったそうです。不思議な魅力に惹き込まれていったようです。しかし、車の運転はダメで、木にぶつかったそうです。頭の中はいつも空想で満ち溢れていたわ。父と家庭教師マリアの思いを7人の子供が受け止めてくれるかどうかが問題でした。次女マリアは、多感な年頃で、家系教師のマリアを姉のように感じていたので、結婚には反対でした。兄が16歳で兄のお嫁さんになっても不思議ではありませんでしたから。 トラップさんは一人の女性としてマリアさんに惹かれていきました。そして1年後の1927年結婚しました。25歳の年の差がありました。 次女マリアさんは反対だったそうです。父が一番愛していたのは母のはずですから・・・・と。 次女マリアさんは、ザルツブルグのモーツアルトテイム音楽学校へ入学。世界的に有名な指揮者ヘルベルトフォンカラヤンと同じピアノの先生に教わっていたそうです。「なぜカラヤンのように弾けないの」と先生に言われ「彼は練習の虫だから」と応えたそうです。カラヤンは、16歳~17歳の頃から知っていました。マリアは、アメリカに来てしまったので |
トラップさんとマリアさんが結婚して2年経った頃、1929年世界恐慌巻き起こり1932年全財産を預けていた銀行が倒産してしまい一瞬にして無一文となりました。家族のすべてが落ち込みふさぎ込んでいて、トラップさんにも声をかけられなかったといいます。ところが、母マリアさんは違っていました。孤児であった母マリアは、乗り越える力を持っていました。。決断力のある人で知恵を絞り、マリアのアイディア=屋敷の一階を礼拝堂にしてしまい、空いている部屋を神学校の学生に貸しました。その中にフランツ・バスナー神父(一家の運命を変えた人)がいます。ある日訪問して来て、1935年の復活祭ミサの依頼があり、そのコーラスを聴いた神父さんは、、生活を共にしながら本格的に歌の指導をしてくださいました。 また、ロシアの屈指のソプラノ歌手ロッテレーマンが部屋を借りに来て、7人の家族コーラスに対して、「黄金の声を持っているわ、明日コンクールがあるから出てみては?」と言いました。新聞にも載りすばらしい評価でした。 コンクールに出場して、優勝し、1936年トラップファミリー聖歌隊が誕生。ヨーロッパへ演奏旅行することになった。 ミラノでも大成功、パリでは12曲のアンコールを歌った。音楽の美しさがヨーロッパ中に広がった。 |
アドルフ・ヒトラー 1933年ドイツの労働者党が年々勢力を増していました。ミュンヘンに出かけた父と母は、ヒトラーの食事をしたり話をしたりしているのを見ていて、ひどい人間であることを見抜いていました。ユダヤ人やカソリック教徒の人々が阻害されていました。 1938年3月21日 姉アガーテの誕生日でした。真夜中にザルツブルグ中の教会の鐘が鳴り響き、父は警察に電話をかけた。ドイツが攻めてきたと言うことで、とても大きなショックでした。ドイツ侵攻 オーストリアはドイツに併行されました。父も兄も家族みんな反ナチスを貫いていた。使用人である執事のハンス・シュワイガーは、ナチの党員であったことを告白。ハンスは、食事の時に「政治の話を避けてください、報告をしなければならなくなりますから」と言った。ハンスは、家族を愛していた。父ゲオルクに召集令状が届く。 |
母マリアに電話があり、ナチの宣伝に利用しようと聖歌隊に歌ってもらいたいと言うことであったが断った。それで何も起きなかったのは不思議であった。 一家の運命を変えるアメリカからのコンサート依頼がきた。ハンスは、「アメリカへ行くチャンスがあるなら、すぐ行って下さい、国境がまもなく封鎖されます。早く行って下さい」と助けてくれたのです。 父は、ダイニングルームに家族を集め、アメリカへ行きたいかどうか一人ひとり聞いた。一人でも行きたくないとなったら行かない。今アメリカへ行くと言うことは亡命することであり、二度とオーストリアへは帰ってこられないと言うことも。 27歳の長男、次男ベルナ23歳、25歳アガーテ、マリアは24歳、結婚後生まれたローズマリー9歳、エレオノーレ7歳も・・・・・・9人の子供 コンサート用の荷物を持って新たな国への冒険心が・・・・オーストリアから離れ、北イタリア、イギリス。。。客船に乗り大西洋を渡りアメリカへ。10日間の船旅でした。 父は、家を出るとき玄関の鍵を姉や兄ではなく、私(次女マリア)に掛けさせてくれました。なぜなのか分かりませんでしたが、誇らしく思ったことを覚えています。 |
美しい歌声が一家を救った 1938年10月 新天地アメリカへ ニューヨークのマンハッタン・・・・・波乱に満ちた生活の始まりでした。 11人の大家族は歌で生きていくしかなかった。アメリカはどんな国か全く分からなかったし、土地の歌は全く知らなかった。衣装は黒ずくめで、バッハの曲しか知らなかった。イメージチェンジの為初めて化粧をした。マネージャーにセックスアピールが足りないといわれ、イメージチェンジするしかなかった。母マリアはグループ名を変えた。 1940年 「トラップ・ファミリー・シンガーズ」、全米各地を回り公演の旅が始まった。旅は好きでしたがとても疲れたそうです。コンサートツアーを何度しても生活は楽でなかった。毎日お金が消えていきました。「あるレストランに入ったのですが一人1ドルと言うことで、私たちには高すぎてそのレストランを出なければなりませんでした。日々の食事にも困る生活でした。 母マリアに掛かっていたマネージャーから、観客とのコミュニケーションを・・・と言われ、母はリーダーでしたからそれもこなしていました。 |
1941年 日本の真珠湾攻撃を初め第二次世界大戦勃発です。 トラップ家は敵勢外国人として登録され、ナチスかもしれないと疑われて(FBI)家中捜索されたことがありました。何も出ませんでしたが・・・1941年 ルーペルトトベルナーが入隊し山岳部隊としてナチスと戦いました。(オーストリアと戦うのではなく) アメリカの市民権を取得する為に・・・・・・1948年父が亡くなった2年後にやっと取れた。 バーモント州のストウに家を家族みんなの手で建てました。父から釘の打ち方を教わりました。ローンを組んで・・アメリカに来て3年経っていました。言葉が分からないから友達も作れなかっし、家族はいつも一緒でした。今は別々だけど・・・・。男の子が戦地に行ってからは、女の子だけで歌っていました。自給自足の生活、 「みんなは一人の為、一人はみんなの為」合言葉に・・・・・そうしなければ生活できなかった。すばらしいことでした。一時はナチスのスパイと疑われたこともありました。 戦地から男性(長男・次男)が無事帰ってきて、また大家族となりました。 |
92歳の次女マリアさんは、ここで「アルムのワルツ」を演奏してくれました。
お父さんから教わったアコーディオンを弾きながら歌っています。アルムとは、オーストリアの牧草地のこと。
畑を作り家畜も、干草、自給自足で支えようとしていた。豊ではなかったが生きていくには充分でした。自由に使うお金はなかった。ゲオルクは大工仕事、マリアはつくろい、母マリアはマネージャーとの打ち合わせと言うように、家族にはそれぞれ役割がありました。妹たちは、陶器やお土産を作って売っていました。どこもこんなもんだと思っていましたし、そうしなければ暮らしていけませんでした。しかし、それはすばらしいことであったと思います。
アメリカの雑誌「ライフ」に「トラップ・ファミリー・シンガーズ」が紹介され、アメリカの人々に受け入れられるようになりました。バーモント州のストウには、山小屋風の建物がたくさんあって、トラップファミリーロッジホテルと言います。敷地の中に父のお墓があります。67歳で亡くなり、母は82歳で亡くなりました。1956年シンガーズは解散しました。 1965年母マリアの書いた自伝を元に映画化され、有名になりました。 次女のマリアさんは、それに背を向けて南アフリカのパプアニューギニアへ宣教師としていきました。42歳でした。 そこで、教師になりたいと志していた一人の青年キクリと出会いました。マリアさんはキクリを養子にし82歳で初めて母親になりました。パプアニューギニアの写真を見せていました。 ロッジのあちこちにトラップ一家の活動した写真が貼ってあります。 長男ルーベルトはオーストリアで医者をしている、アガーテさんは幼稚園を経営し、ベルナーさんは農場を買って牧場を経営しています。1965年映画が公開されてから一家が有名になったのです。 養子のキクリさんは、母はとても謙虚な方ですと言っていました。92歳のマリアさんですが編み物をし靴下を編んでいました。今新しい仕事に取り掛かっています。一家の歩みを歌と共に残したい、伝えたいと「サウンド オブ チルドレンミュジック」を・・・・。魂に響く歌を伝えたいのだそうです。 高齢ながら仲の良い姉妹兄弟は、今も時々あっておしゃべりをしたり歌を歌ったりしています。お元気なんです。うれしいですね。 |