私たちが歌ってきた楽譜は、大正6年(1917年)に山田耕筰がロ短調からニ短調へ移調しピアノ伴奏を補い、旋律にも改変を加えたものである。山田版は全8小節から16小節に変更し、一番の歌詞で言えば『花の宴』の「え」の音を原曲より半音下げている。
歌詞については、土井晩翠が詩を構想されたと言われている仙台市の青葉城址、会津若松市の鶴ヶ城・・・に歌碑があ。
滝廉太郎が曲を構想したのは、大分県の竹田市にある岡城址で、少年時代荒れ果てた岡城に登って遊んだ印象が深かった事から、明治34年(1901年)に中学校唱歌「荒城の月」を作曲し発表。
ロシア正教会の「トラデショナル・ミサ」の中で、山田耕筰編曲版が賛美歌として歌われていることが確認されている。
瀧廉太郎のプロフィール
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瀧廉太郎は二階のこの部屋でした | 駅の前にある川にアオサギ |
明治12年(1879) 8月24日
東京市芝区南佐久間町2丁目18番地に生まれる
父 吉弘(38歳)・母 マサ(29歳)
同 19年(1886) 5月
神奈川県師範学校付属老松小学校入学
同年9月、父転任のため富山県師範学校付属小学校転入
同 21年(1888) 5月
東京市麹町尋常高等小学校3学年転入
同 23年(1890) 3月
同校尋常科卒業後高等科進学(当時は尋常科4年、高等科4年制)
同年4月父転任のため大分県尋常師範学校付属小学校高等科1学年に転入
同24年(1891) 12月
父転任のため一家全員で豊後竹田の官舎へ移る
同25年(1892) 1月
大分県直入郡高等小学校第2学年に転入
5月、同校3学年へ進級
同27年(1894) 4月
同校高等科卒業
5月、上京し芝唱歌会に入会。住居は東京市麹町平河町従兄大吉の家
9月、東京音楽学校(予科)へ入学
同30年(1897) 8月
脚気を患い、竹田で静養。『散歩』作曲(10月発表)
同31年(1898) 7月9日
本科(専修部)を首席で卒業。9月1日、研究科進学
同32年(1899) 9月
音楽学校嘱託となる。 10月、授業補助を命ぜられる。(月俸 10円)
[四季の瀧]作曲、東くめ歌
同33年(1900) 6月12日
ピアノ及び作曲研究のため、満三ヵ年ドイツへ留学を命ぜられる。
同34年(1901) 3月
[中学唱歌]出版、([荒城の月]作曲、土井晩翠作歌。[箱根八里]作曲、鳥居枕策歌。
「豊太閤」作曲、作歌不詳
4月6日、ドイツ留学のため横浜港出航
同35年(1902) 10月17日
東京へ帰着。 10月30日、「別れの歌」作曲。11月、大分町にて病気療養。
12月29日「荒磯」作曲
同36年(1903) 2月14日
「憾(うらみ)」作曲
同36年(1903) 6月29日
大分市稲荷町339(府内町)にて病死(23歳)
大分市金池町の万寿寺に葬られる。 戒名「直心正廉居士」。
大分県竹田市
プロフィルを書いていて、瀧廉太郎は小学校に入ってから父親の転任で転々と移動し、自分の人生を歩くようになってからも亡くなるまでも、一箇所に数年落ち着いていたことがないことに気づき驚いた。もっと長く生きていたとしたら、日本の音楽界に貢献できた方であったろうと病魔を憾む。